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邪馬台国を探してみた。 

 投稿者:はる  投稿日:2011年 4月27日(水)11時37分45秒
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  遅ればせながら、大変興味深く読ませていただきました。ド素人の揚げ足取りになるとは思いますが、思うままに書いてみました。

1)距離
 帯方郡からの総距離=12,000里 短里(77m/里)なら924㎞、長里(435m/里)なら5220㎞
 一支国(壱岐)~末盧国(松浦)=1000余里 短里なら77㎞、長里なら435㎞ 実際には直線距離で60㎞程度?
 末盧国(松浦)~伊都国(糸島)= 500里  短里なら40㎞弱、長里なら220㎞弱 実際には直線距離で60㎞程度?
 伊都国(糸島)~奴国(福岡?)= 100里  短里なら10㎞弱、長里なら50㎞弱 実際には直線距離で20㎞程度?
 よって、短里・九州説に軍配。そもそも魏志の記述は、7000里、1000里、500里、100里、20日、10日、1月と大雑把ですが…。
2)旅程
 対馬~壱岐(一支国)は分かる。が、その後ナゼ、伊万里湾の松浦(末盧国)に行く? 普通は唐津湾or糸島半島(伊都国)、もっと直接奴国(福岡市?)を目指すのでは?そもそも、邪馬台国の都へのルート(軍事機密)を外国人に素直に教えるわけはないでしょうから、方位も距離も不正確になるよう仕向けるでしょうね。
3)名前(作家の井沢元彦氏の説)
 卑弥呼と台与という二人の女王が魏志倭人伝に登場するが、これを名前とは取らない。目上の者を名前で呼ぶ習慣が中華圏には無いから。天皇陛下の名を本名で呼ぶ者がいないのと同じで、もし呼ぶ者がいれば、それは親か敵でしょう。邪馬台国からの使者は、魏の皇帝に王の名を問われて何と答えたか?通常、地位・役職・居住地などを答えたと考えられる。後世の例で言えば、将軍・関白・淀の方・北の政所など。であるならば、卑弥呼・台与は何を表すのか?ヒムカ・トヨという音から出身地である、日向(宮崎)・豊(福岡・大分)ではないか。
4)卑弥呼の死因(作家の井沢元彦氏の説)
 東日本大震災でも現首相や内閣の責任を問う声は多い、地震そのものも管首相のせいだと言う者さえいる。古代ならば尚更で、邪馬台国が太陽信仰の国であり、卑弥呼がシャーマンであるならば、不作・凶作・飢饉・敗戦・異常気象に至るまで霊力の衰えと判断され殺されたと考えることは難しくない。卑弥呼が死亡したといわれる248年に、皆既日蝕が起こっている。太陽信仰国家でこれは致命的。近畿よりも九州の方が日蝕の程度が大きかった(らしい)。天の岩戸伝説はこのことを象徴的に物語っているとも。
5)地形・面積
 単純に筑紫平野と奈良盆地を比較して、農業生産力からどちらに大きな国ができるか?どう見ても筑紫平野だが、実際の遺跡や古墳では逆になっている。これは不思議。北九州よりも宮崎の方が大規模な前方後円墳が有るというが、これも不思議。立地条件と国の大小は関係が無いのか?確かに、尾張の織田信長と甲斐の武田信玄のような関係を想像すれば、逆転もあり得る。有能な人材がいれば。
6)大和をヤマトと発音する理由
 これが、幼い頃から疑問でした。漢字は後から当て字したことは間違いない。邪馬台国をヤマト国と読むことに異論はないでしょう。九州の山門などはそれらしく読めるが、近畿の大和は読めない。近畿の人々は何をもってヤマトと名乗ったのだろうか?それが分からなければ、別の場所のヤマト国の人々が移って来て、奈良にヤマト国を作り名を継承したと考えるのが楽。しかし、どちらかと言えば奈良の方が山都っぽい。ちなみに武蔵も知らなきゃ読めん。
7)神宮
 神宮と神社の違い御存知? 宮は皇室の祖先を祀り、社はそれ以外の者を祀る。唯一の例外は太宰府天満宮。それほど朝廷は菅原道真の怨霊を恐れたということでしょうか。伊勢神宮を始め、全国の神宮と名の付くものの起源を調べれば、何か手がかりになるまいか? 私感ですが、九州には巨大な神宮が大変に多い。八幡宮くらいしか無い東北育ちのせいかもしれませんが…。
 作家の井沢元彦氏によれば、出雲大社と宇佐八幡宮(大分県宇佐市)だけが参拝時の柏手が四回だという。死につながる縁起の悪い四には意味が有り、出雲大社に祀られている大国主命と同様に鎮めなければならない怨霊が宇佐にも祀られていると言う。宇佐神宮の御祭神は、応神天皇、その母神功皇后、そして宗像三神のこととされる比売大神。この中で誰が鎮めなければならない怨霊なのか? 応神・神功にその形跡は無し。ならば比売大神となるが、宗像三神としているのはカムフラージュで、これこそ卑弥呼ではないかと言う。
 ナゼ、全国4万社余りあるという八幡様の総本宮が宇佐に有るのか? 卑弥呼の後継者台与が豊の国出身で、殺害された卑弥呼を祀ることが大きな任務だからではないのか? 比売大神なる者が応神・神功という大物と一緒に祀られるだけでも不思議なのに、ナゼ挟まれて中央に祀られているのか? ナゼ、弓削の道鏡が皇位に就く就かないの託宣を天照大御神を祀る近くの伊勢神宮ではなく、遠い宇佐に求めたのか?しかも戦勝祈願の八幡宮に。もし、卑弥呼がどこにも祀られていないなどと考えるならば、それは日本人の心を知らないと言わざるを得ない。

以上、最初に読んだのが井沢元彦の歴史推理小説『卑弥呼伝説』だったもので、これらの状況証拠から十年ほど前は九州説でした。
ちなみに、数年前に吉野ヶ里には行きましたが、水田は発見されていませんでした。そりゃそうだ、あんな丘陵地帯に水田が有るはず無い。百姓なら誰でも分かる。あそこはあくまで環濠集落でしょう。解法者さんは、30~40万人の都を想定しているようですが、大き過ぎやしませんか。江戸の町でも百万、奥州平泉の全盛期でも十万(これも誇大と思う)ですから、里程と同様に魏志の数値は当てにならんと思います。物証も大事、しかし宗教的な観点も大事。なんせ墓を探しているんですから。
長過ぎてスミマセンが、これが全てですので。
 
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