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倭の五王(19)

 投稿者:解法者  投稿日:2011年 4月24日(日)22時11分11秒
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  5.「武」
  「興」から「武」に代が変わり、「武」は「宋」順帝昇明2年(478年)に遣使して
 いる。このときも、『宋書』本紀-順帝紀および列伝には、『「興」死し、弟の「武」立つ。
 自ら使持節、都督・倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国
 王」と称して』(「興死、弟武立。自称使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕
 韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」)となっている。このときも、「済」は、外された
 「百済」を入れていることである。倭王「武」としては属国であった「百済」を外され
 るのは屈辱の何物でもないと考えていたのである。このことは、次の遣使に現れている。
  授爵が認められなかった「武」は使者に上表文を持たせて奏上している。この様子は
 『宋書』順帝紀および列伝に、次のように記されている『順帝の昇明2年(479年)、
 使いを遣わして表(ふみ)を上(たてまつ)りて曰く「封国(国土=自国)は偏遠(へ
 んえん-遠い僻地)にして、藩(領土)を外に作る。昔より祖禰(そでい-祖先〔祖〕
 や父〔禰〕)、自ら(躬)甲冑を擐(つ)けて、山川を跋渉(ばっしょう-遍歴)し、寧
 処(落ち着く)に遑(いとま-暇)あらず。東は毛人(蝦夷)を征服すること55カ国、
 西は衆夷(多くのえびす-熊襲・隼人)を服すること66カ国、渡りて海北を平らげる
 こと95カ国なり。王道は融泰(ゆうたい-安泰)し、土(国土)を廓(ひろげ)畿(
 王都)を遐(遥か-国土が広がり王都への道のりが遠くなる)かにし、累葉(るいよう
 -代々)朝宗(ちょうそう-天子に拝謁する)して、歳を愆(違えず)えず、臣下は下
 愚と雖も。忝く(かたじけなく)も先緒(祖先の偉業)を胤(つ)ぎ、統(すぶる-治
 める)ぶる所を駆率(くそつ-統率)し、天極(自然の摂理)に帰崇(尊ぶ)し、道は
 百済を逕ぎ(すぎ-通り)、船舫(せんぼう-船)を装治(準備する)す。而るに(しか
 るに)句驪(高句麗の蔑称)は無道にして、図りて見呑(軽く見る=軽蔑する)を欲し、
 辺隷(辺境で従う者=「倭」に従う者=百済の蔑称)を掠抄(りゃくしょう-掠め〔か
 すめ〕取る)し、虔劉(けんりゅう-殺し害する)已まず(やまず)。毎(つねに)稽滞
 (けいたい-とどこおる)を致し、以て良風を失う。路を進むいうと雖も、或いは通じ、
 或いは不(しからず)。臣、忘考(亡き父)の「済」、実に寇讎(こうしゅう-敵)が天
 路(正しい道)を擁塞(ようそく-ふさぐ)するを忿り(怒り)、控弦(こうげん-弓を
 引く兵士)百万、義声感激し、方(まさ)に大挙せんと欲するも、奄(にわかに)父兄
 を喪い(うしない)、垂成(すいせい-成就する)の功をして一簣(いっき-わずか)を
 獲(え)ざらしむ。居(いながら)にして諒闇(りょうあん-天子が喪に服する期間)
 に在り、兵甲(武器と甲冑)を動かさず。是(ここ)を以て偃息(えんそく-休息する)
 して未だ捷たず(かたず)。今に至り甲を練り兵を治め父兄の志を申(の)べんと欲す。
 義士虎賁(勇士)、文武が功を効(いた)し、白刃が前を交わるとも、亦顧みざる所なり、
 もし帝徳の覆載(ふさい-天の惠)を以て、この強敵を摧き(くじき)、克く(よく)方
 難(迫害)を靖(やす)んじなば、前功を替えることなし。窃(ひそか)に自ら開府儀
 同三司(官名)を仮し(自称する)、その余(臣下)は咸(みな)各仮授(仮に授ける=
 自称する)し、以て忠節を勧まん(はげまん)。」と。詔して「武」を使持節、都督・倭・
 新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に徐す。』(「鳥越憲三郎」-
 前掲書 153頁を参考にした)。
 
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