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皇国史論「多元史観」編―第壱部

 投稿者:日野護国運動家  投稿日:2010年12月20日(月)18時56分32秒
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   序
今回は神武天皇の実在と邪馬台国(邪馬壹国)から九州王朝への連続性を証明した。それをこの掲示板に報告する。

九州王朝説を批判される方はこれを読んでもらいたい。

①神武天皇について

神武天皇が実在したことは古田武彦、安本美典といった文献史学者によって主張されてきた。

二人の説の大筋は北九州の王朝(邪馬台国、邪馬壱国)の分流が銅鐸圏に侵入したという。

詳しい論証は省くが『魏略』によれば当時の日本は倍数年歴を使用しており、『古事記』の長寿の記述も怪しむ必要はない。

だいたい長寿の記述は雄略天皇のころまであり、「長寿だから実在してない」では、神武から雄略に至るほとんどの天皇が架空となる。

これは「雄略天皇による日本統一」という定説の自己否定であり、津田左右吉の左翼史観がいかに矛盾に満ちているかがよくわかる。

なお、古田武彦昭和薬科大学元教授(日本思想史)は一般に左翼だと言われており、その古田氏でさえ津田史学を疑っているのだ。

*稲荷山鉄剣の解釈も矛盾に満ちているがそのことについては別に述べる。

②『魏志』の里程解釈

【郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。】
ここで「七千里」という里程が出てくる。これについて考えよう。
これは「どこからどこへ」をあらわすのだろうか。「帯方郡から倭国まで」と答えた人、あなたは零点です。「同郡から狗邪韓国」と答えた人、50点です。
みなさん、どこにもそんなこと書かれていませんよ。そう、答えはないのです。(つまり、質問から間違っている)

今の日本人は「あそこからここまで何キロ」という風に考えがちですが、昔は必ずしもそうではありません。『魏志』の「倭人伝」でそう書かれてあるのは一回だけ、【郡より女王國に至ること萬二千余里。】の例だけです。

【韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し…】これは「韓国の内の里程」を表しています。つまり、「倭人伝」の多くの里程は「あそこの国は何里」という形で書かれてあるのです。

【倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周施五千余里なる可し。】

ここでは、倭国は海を中心とした国であるとされています。狗邪韓國が「倭の北岸」としているのもそのためで、中国人から見ると「倭国は海の国」であるわけです。

また、ここで「倭国は(周施)五千余里」とされています。「韓国は七千余里」という先ほどの例と同じです。

【始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。】これは「海は何里」という形です。このように解釈していくと、これまでの「倭人伝」解釈は完全に誤読されていたことがわかります。

なお、倭国五千里のうち、三千里は朝鮮海峡です(先ほどの文が三回繰り返される)。残りは二千余里で、韓国が七千里であることから考えると、九州説に軍配が上がります。

③邪馬壹国の物証
   一世紀から三世紀にかけての「後期弥生時代」の遺跡状況、そこに「邪馬台国近畿説」を裏付けるものは果たしてあるのだろうか。

まず、「銅鏡」。これには二つの分布がある。
三角縁神獣鏡―奈良、京都
漢式鏡   -福岡
このうち、三角縁神獣鏡は日に日に「近畿有利」を裏付けている。しかし、九州論者は「それは国産」と主張する。このような論争は考古学者の領域で、私は関わらないが、もうひとつの証拠を忘れてはならない。
「宮室・楼観……常に人有り、兵を持して守衛す」
「兵には矛・楯・木弓を用う」魏志倭人伝

この「矛」は、当然「銅矛」が中心であろう。(「石矛」「鉄矛」であったとしても、弥生時代の「矛」分布は、「銅矛」のそれと相違ないはずである)
では「銅矛」の分布。
奈良―  0例
福岡―123例
大分― 50例
佐賀― 12例
熊本―  9例
福岡が明らかに多い。
では、具体的にどこか。それも詳しく見よう。
<福岡>筑前(博多湾岸等)大型矛 80
<福岡>筑後(八女市等)  同   43

次に、「鉄器」。
近畿― 80点
九州―344点
内、「武器」。
近畿― 24点
九州―134点
さらに県別でみよう。
福岡―106例
大分― 75例
京都―  5例
奈良―  1例
大阪― 27例
兵庫― 42例
香川― 46例
全ての件をあげれないが、代表的なものは以下のとおりである。

次に「勾玉」。
倭人伝によれば、倭は中国に勾玉(勾珠)を献上している。

「白珠五千孔・青大勾珠二枚…貢す」

これによれば、献上されたのは青く大きな勾玉であった。「ガラスの勾玉の鋳型」の出土例をみれば、「博多湾岸」領域が最もふさわしい。

さらに、「大型鉄器」。
福岡 ―38例
長崎 ―17例
鹿児島―10例
奈良 - 0例
ほかに、一点、二点、三点の出土はあるが、10点以上の出土は上の三つだけである。

さて、これで「一世紀から三世紀の倭国の首都=福岡県」という命題、これを疑うことはできない。つまり、「邪馬台国近畿説は有り得ない」と言えるのだ。

もはや、考古学における近畿説の根拠は三角縁神獣鏡と古墳のみ。さらに、銅鏡ならもう一つある。これを「漢式鏡」という。
福岡―149点
佐賀― 11点
兵庫―  2点
山口-  1点
岡山―  1点
奈良―  0点
他 -  1点
もう中心地ははっきりした。福岡県である。

いや、結論を急ぐのは早い。「国力」は「鏡」では決まらない。「技術力」「生産力」もその要因である。

それでは、「鉄製の農具」をみてみよう。
九州―39点
近畿― 0点
はっきり言って、これでもう「決まった」のではないだろうか。

なぜなら「農具用に鉄なし」という状態、それで「倭国の盟主」即ち邪馬台国(邪馬壹国)の場所とするなど、愚かも甚だしいからである。

「近畿に鉄製農具なし」・・・この事実は重い。農業は国の命である。それに「鉄がない」とは「国力が低い」ことの証明とはならないのだろうか?

当時、鉄は韓国から輸入されていた。おそらく、九州が鉄の封鎖をしたのであろう。もう、「邪馬台国近畿説」は完全に崩壊したのである。


④部分と全体の論理
   倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

A)区間里程

1.七千余里  帯方郡治→狗邪韓国
2.千余里   狗邪韓国→対海国
3.方四百余里 対海国の面積
4.千余里   対海国→一大国
5.方三百里  一大国の面積
6.千余里   一大国→末盧国
7.五百余里  末盧国→伊都国
8.百里    伊都国→奴国(傍線行程)
9.百里    伊都国→不弥国
B)総里程

1.一万二千余里 帯方郡治→女王国
C)日程

1.水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)
2.水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所
さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。

しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。

これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」

行きて曲阿に至る。呉志三

諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八

これが通常の形である。

b)(先行動詞なし)「至」

東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。

ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものである。

それが、盲点だったのである。当然、魏使はこの「対馬」と「壱岐」、即ち「対海国」と「一大国」を通過したのである。この場合、「半周通過」が自然である。

そのように計算した場合、対海国の半周=八百里、一大国の半周=六百里であり、計千四百里である。これを先の一万六百里と合わせて、ちょうど一万二千里となる。

ここで「区間里程の総和が総里程」となったわけである。

以上の結果は次の結論を導く。「不弥国=邪馬壹国の玄関」である。

なぜなら、不弥国で丁度、里程記事が終わっているからである。即ち、これは次の命題をうむ。

「不弥国は邪馬壹国の一部」と。それでは、邪馬壹国(邪馬台国)の中心地はどこか。そこから、次の論証は始まる。

⑤短里の証明
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。

『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。

魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。

この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

?韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。

これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。

1.韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。

2.韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。

3.倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「韓国」を含む表現である。

したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。

4.同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。

5.魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。

朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。

また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。

この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。

こうしてみると、どのように考えても「邪馬壹国=九州」とせざるを得ないのである。

⑥倭の五王は九州

さて、『三国志』に続く史書、『宋書』には、有名な「倭の五王」が登場する。倭の五王は、応神(第15代)から雄略(第21代)の7人の天皇のうちのいずれかにあたると、従来言われている。

それを列記しよう。

(1)讃

1.履中(第17代)説 松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・原島礼二
2.仁徳(第16代)説 星野恒・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世・岩井大彗・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野祐
3.履中もしくは仁徳説 津田左右吉・井上光貞・上田正昭
4.応神(第15代)説 前田直典
(2)珍

1.反正(第18代)説 前田直典以外
2.仁徳説 前田直典
(3)済

1.允恭(第19代)説 異説なし
(4)興

1.安康(第20代)説 水野祐以外
2.木梨軽皇子説 水野祐
(5)武

1.雄略(第21代)説 異説なし
(水野祐は『梁書』の「弥」を(1)と(2)の間に入れこれを履中とする)

この内、前田・水野の両説は異色の説であり、孤立している。したがって、他は(2)~(5)については一定している。(1)の讃だけが各学者の意見が分裂しているのである。

さて、武が雄略に当たると言うのであれば、当然その4代前の讃は履中でなければならぬ。しかし、この比定には、重大な矛盾がある。

晋安帝の時、倭王賛有り梁書倭伝

(晋安帝、義熙九年)是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず晋書安帝紀

によれば、讃(賛)は東晋の義熙九年(413)に既に朝貢している。宋書に登場する元嘉二年(425)まで、少なくとも足掛け13年は在位していたことになる。

さらに、次の珍は元嘉十五年(438)に貢献し、受号している(宋書文帝紀)。したがって、讃・珍の二代の在位年数の合計は少なくとも26年以上ということになる。

讃は義熙九年(413)以前の数年を加えなければならないだろうし、珍も次の済の貢献年次(443)までの何年かを加えねばならぬ可能性が充分にある。

ところが『日本書紀』によれば、履中(六年)・反正(五年)の在位年数の合計(11年)は、先の最小年数(26年)の半分にも満たない。一般に「書紀」の在位年数は「実数値より多い」のであって、これは矛盾である。

そこで、讃=仁徳説が浮上するのである。だが、ここで新たな矛盾が生じる。

『宋書』では、珍は讃の弟である。一方、仁徳は履中・反正との関係は親子である。

それで両者が激しく論争をするのだが、外から見れば、問題はハッキリしている。どちらも矛盾している。どちらの説も成り立たぬ。

こうして、そもそも、「倭の五王」を「天皇家」に当てる試みは、正しかったのか?という問いに進まねばならないのだ。

さて、倭の五王のなかで、比定すべき天皇がもっとも確実だとされるのが「武」だ。ところが、「武」には奇妙な問題がある。『宋書』の次の『南斉書』『梁書』にも「武」が登場する。

建元元年(479)進めて新たに使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す南斉書倭国伝

(天覧元年、502)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ梁書武帝紀

日本書紀に依れば雄略の治世は456-79だから、梁書の「武」は雄略の治世をはるかにオーバーしてしまう。

502年といえば、『日本書紀』なら雄略より4代あとの武烈の治世であり、「武」は雄略-清寧-顕宗-仁賢-武烈の各治世にまたがっている。

このような事実が、「武」と雄略は同一人物でないことをハッキリ示している。(さらに、「稲荷山鉄剣銘文」とも矛盾があるが、後述する)


さて、「倭の五王」問題の根本は名前である。中国風の一字名だ。一般にこのように解説されている。

1.倭国側は記紀のように、倭名を表音表記したもので書いた(或は口で述べた)
2.中国側はこのような長い漢字の連なりを、人名にふさわしからず、として、これを中国風の一字名に書き換えた。
3.その際、倭国側の書いてきた(或は口で述べた)「長たらしい名前」の一部を切り取るという手法を用いた。
4.その際、中国側であやまって文字を書き換えたり、同じ意味の別字に書き換えたりした。(伝写の誤りも含む)

これは本当だろうか。『宋書』の夷蛮伝には数多くの夷蛮の人名が載っているが、それが3字だろうと4字だろうと、7字だろうと、原音のまま表音表記されている。

これは、『南斉書』『梁書』も変わらない。

『魏志倭人伝』も倭の女王の名は「卑弥呼」と記されており、一字を勝手に切り取って載せると言うことはしていない。後の『隋書』も同じだ(「多利思北孤」)。

では、一字名はどこから生まれたのか。百済伝・高句麗伝をみれば、その王達は「余映」「高[王連]」などの中国名を名乗っている。

これらは自ら中国風の名を名乗ってきたのだ。(いわゆる「五胡」も、中国の文化を受容するにつれ、中国風の名称を用いるようになっていった)「倭の五王」もその例である。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。

従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。

倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。

当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

その「海北平らぐこと・・・」だが、「神功皇后紀」や神話のように『古事記』や『日本書紀』は「朝鮮」を「海西」としている。

したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。


⑦邪馬台国と倭の五王の連続性
貴む可き哉、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設し海に浮かば、九夷に居らんと欲す。以有る也。夫れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来献す、と云う。漢書、地理志、燕地

最後の一文だけが、あまりに有名だが、全体としては、このような文脈である。

最初に「仁賢」と言っているのは、「箕子」である。この直前の部分で、班固は朝鮮半島に箕子が赴き、仁義礼を広めたのだ、と語っている。それを受けて、「そのおかげで、東夷は柔順で他の夷蛮とはその点で異なるのだ」と言っているのである。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて…」これが文脈である。

「孔子が海を渡って九夷の住む地に行きたいと語った」という説話は、『論語』にも見える。少なくとも漢代には周知の説話だったはずである。

班固はその説話を踏まえて、孔子がそう思った理由を推察している。

それが「楽浪海中に倭人有り」である。ここから明らかなように、「孔子は朝鮮半島の先の海中に倭人が居たことを知っていた」と、少なくとも班固は思っているのである。

同じ漢代の『論衡』に次の一文がある。

周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能わず。論衡、儒増

著者王充は班固と同時代(5つ年上)の人物である。

彼は、『論衡』において、儒家としての彼の主張を表現している。彼の主張はこうだ。

「周は白雉や鬯草の貢献を受け、それを使用した(白雉・鬯草ともに、吉祥を招く縁起物)にもかかわらず、凶(=春秋戦国を経た、滅亡)を避けられなかった。(非合理的な儀式や迷信に根拠は無かったのだ)」儒家得意の合理主義がここに現れている。

孔子は、周王朝の最中に居たから、ここまで、痛烈な批判は出来なかったが、漢において王充はそれを行ったのである。

このような文脈に現れる「倭人」は、周の時代に「貢献」したのだという。

このとき、王充にとって、「周代の倭人貢献」は、周知の事実だった、と見なすほか無い。

なぜなら、そうでなければ、ここで王充が最も語りたい「周の儀礼主義批判」は、空振りに終わってしまうのである。

当然、王充は、同じ漢代の読者にとっても「周代の倭人貢献」が常識的な説話であることを知っていた。

このように見る時、その5つ年下の班固が、語る「楽浪海中」の「倭人」は、王充の語る「倭人」に等しいという、当たり前の事実が判明するのである。ここで、班固の文脈を振りかえろう。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、倭人がいて、…(周の時に)来献したのだというのである」

考えても見よう。『漢書』の「倭人貢献」が、漢代の出来事ならば、最後に「と云う」で結ぶことなどありえない。

これは、「倭人貢献」が漢代の事実を指したものではなく、それ以前を指したものだと言うことを示唆する。

さて、王充と班固は後漢の人物である。王充は建武三年(27)の生まれ、班固は建武八年(32)の生まれである。

ちょうど彼らの生きた時代、それも20代後半から30代にかけて、洛陽で話題になったのが、「倭人」だった。

 建武中元二年(57)、倭奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜うに印綬を以てす。後漢書、倭伝

「朝賀」とは、「朝廷の儀礼に参加し、礼を尽くす」という意味であるから、倭人は洛陽に来ったのである。

そして、華々しく金印を授与された。当然、光武帝側にとっても、一大イベントだったはずだ。ちょうどその頃、班固も王充も洛陽にいた。「太学」に学んでいた最中だったのである。従って、班固が、

楽浪海中に倭人有り。

といい、王充が、

倭人鬯草を貢す。

と言った時、「直接的」には、この「金印の倭人」をイメージしているのである。

少なくとも、漢代の知識人にとっては、「周代の倭人」と「後漢代の倭人」は同一のものと見なされている。

 倭人は帯方の東南大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。三国志、魏志倭人伝

これが『魏志』の倭人伝の冒頭部分である。

『三国志』の「今」が晋の時代(陳寿の三国志執筆時代)を指していることは言うまでも無い。

ここで、「漢の時朝見する者有り」と言っているのは、当然、後漢代の遣使である。

『後漢書』の記述は、『三国志』を受けてのものである。当然、『三国志』の倭と『後漢書』の倭は同一だ、といっているのである。

後漢のころに朝貢した倭、それは当然「博多湾岸」のものである。「金印」がその最大の証拠だ。

このことから、「邪馬台国は博多湾岸にあり」という結論になる。
 
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