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竹下先生、ありがとうございました!

 投稿者:通りすがり  投稿日:2012年 3月29日(木)05時05分18秒
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  すみません、返信遅れました。
先生からのご返信に気が付きませんでした。

>重要な事は松井大将や幕僚が「命令」として南京攻略後に市民を含む人間の殺害を指示したか否かです

そうですね。ここが重大な問題です。
それを踏まえた上で、次の逸話をどのように解釈いたしますか?

(引用開始)
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。
そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。
中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。
そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。
それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。
おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、

「長、その話だけはだれにもするなよ」

と厳重に口どめしたという。
(引用終了)

これは徳川義親の自伝である「最後の殿様―徳川義親自伝」に書いてある事です。
徳川義親と言えば、「富田メモ」の本当の発言者であるという説もある人物で、「A級戦犯の合祀」に反発していたような人物ですね。
彼は長勇のこの話を、藤田勇(東京毎日新聞社長)から聞いたそうです。
つまり

長勇→藤田勇→徳川義親

という伝聞ですね。
「伝聞の伝聞」は証拠価値としては落ちるものですが、このような話についてはどうお考えになりますか?

私の考え……と言うより「疑問」なのですが……

※長勇wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%87

まず疑問の一つ目、

1、1937年の南京戦の時点で長勇 陸軍中佐は中支那方面軍の「参謀」だったそうなのですが……
果たして「参謀」が……
しかも『朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀』という立場の人間が……
兵隊に「命令」する権限はあったのでしょうか?
兵隊に命令するのは「小隊長」や「中隊長」の役割であり、「参謀」には命令する権限も、その参謀の命令に服従する義務も、兵隊には無いと思うのですが……

「帝国陸軍」の命令とかの仕組みが全く解らないので、是非竹下先生にお教えいただきたいのです。

2、仮に本当に長勇中佐がこのような命令を出していたならば、
(他にも長勇中佐は、捕虜の処分について「ヤッチマエ」と発言、松井大将になだめられたという逸話を持っていたり「トラブルメーカー」だったようです)
竹下先生の仰る、『幕僚が「命令」として南京攻略後に市民を含む人間の殺害を指示した』事になるのではないでしょうか?

私は「1」についての疑問がありますので、
また富田メモの真の発言者と噂される「徳川義親」という人物の話に不信感を抱いていますので、
イマイチこの話を信用できないのですが、是非お暇な時にでも先生にお教えを願いたいのです。


 
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